補遺Ⅰを書き終えても、心の中にはまだ書ききれない思いが残りました。
それを閉じ込めたままでは前に進めない気がして、もう一度だけ筆を取りました。
(※本記事は「補遺Ⅰ」前後編の続きです。)
関連補遺
▶補遺Ⅰ前編 削除と冤罪 ― 記録の中の誤解
▶補遺Ⅰ後編 物語が現実を凌駕する ― 界隈も飲み込まれた信仰構造

書いても書いても、書ききれません。
どんなに言葉を選んでも、感情に満ちた文章になってしまうのを止められません。本当は、冷静に記録したいだけなのに…あの時の痛みや悲しみが、どうしても怒りとなって現れてしまう。
それでも私は、できる限り、事実だけをまっすぐに書こうとしています。
溢れてくる感情をどうすればいいのか、いまだにわからないのです。
悲しみを出せば「被害者気取り」とされ、怒りを出せば「頭のおかしな人」とされる。
何ひとつ事情を知らない人たちまでが、「雅子さまいじめは許さない」と言いながら、その裏で同じ構造に加担していく。
かつて、私の視点を面白いと言ってくれた人たちがいました。
けれど、その「違い」は、やがて溝にもなりました。
私は、どれだけ正直に話しても、悪意でしか受け取られない人たちがいると知りました。
どれだけ私の心が擦り減っても、痛みが理解されることはなく、苦しむ姿さえ「嘘」だと見なされていく。
きっと、彼女たちは悪い人たちではないのだと思います。
けれど、一度「敵」だと認定されれば、平気でそうできてしまうのも人間なのだと、思い知らされました。

小さな願い、大きな齟齬
私は、Eさんたちと関係をやり直したかったわけではありません。
ただ、誤解を正したかった。正せないまでも、何に対して私が怒りと悲しみを持ったのか、聞いてほしかった。
削除された記事を戻してほしかった、それが叶わないなら、「私が調査していた事実を認めてほしい」それだけでした。
けれど、その願いさえも「執着」や「妨害」と受け取られました。
たった一度でいいから、直接、冷静にゼロから二人で話し合いたかっただけなのです。
私の伝えたいことと、Eさんが受け取っていることの、なにかが噛み合っていない、そんな小さな違和感を、放っておきたくなかった。
なぜ私だけが、ここまで悪者にされなければならないのか。
私は何度もコンタクトを取っていました。
冷静に話し合いたいから「落ち着いてください」と伝えれば、「ずいぶんと失礼ですね」と逆に怒りを買う。
私は、誰かを振り回すために言っていたわけではありません。
ただ、事実を伝え、自分の言葉で主張したかっただけなのです。
削除依頼は一度だけ行いました。
けれど、その日のうちに撤回しました。
それ以降、削除を求めたことは一度もありません。
調査の大変さを伝えたら、どうしてそれが「削除してほしい」につながるのでしょうか。
それでも私は一方的に閉め出され、
「Eさんを苦しめる悪党」「当たり屋」として物語が語られていきました。
けれど、私から見ればそれはまるで、後ろから押された瞬間に、「自分で車の前に飛び出した」と決めつけられたようなものでした。
私をその場所へ引き合わせ、調査を共有させたのはどなたでしょうか。
記事が削除されたことで、私の痕跡は跡形もなく消え、私の主張は、
気づけば「他人の成果を奪った」「自信過剰」「自分のものだと言い張る人」として、京アニ事件の犯人のように語られていったのです。
あれだけ調べたのに…
それが、どれほど理不尽で、どれほど恐ろしいことか、
表現できる言葉が見つかりません。
私は、ひたすら掘って、掘って、掘り当てたものを、共有チャットに、ただそっと置いただけでした。
けれど、その後、少し話し合っただけで「四人で調べた」と整理され、私の時間も、記録も、存在も薄まっていきました。
仲の良いときは、それでいいと思っていた。何も感じませんでした。
けれど、記事が消され、私の調査の痕跡がなくなり、同じ情報が別の人の「発見」になっていったとき、
「あなたの情報だとでも思っているの?」と突きつけられた言葉の苛烈さに、すべてが崩れ落ちました。
私は、彼女たちを貶めたいのではありません。
ただ、「私の側から見えた現実」を、せめて一度は立ち止まって考えてほしいのです。
Eさん側から見た現実のみで、私の人格が作られ、それが否定されている辛さ。
せめて、その事前情報をEさんには知ってほしかった。
私がどれだけ、「地道な調査」を大切にしていたか。
ファーストインプレッション
私は、ある人から「ツイッターで書いているその件(赤とんぼ先生事件)をEさんに話してほしい」と頼まれました。
そのときは、Eさん一人に向けて情報を提供するものと思い、了承しました。
けれど、設定された場は、私と他の二人の三人セットで、Eさんに情報を提供する形になっていました
チャットに入ってきたEさんは、私たち三人が親しい関係だと考えたのかもしれません。
けれど正直、私はその時点で大切な調査を完全に共有できるほど、互いの信頼が育っていたとは感じていませんでした。
私からEさんに近づいたわけではありません。
ただ、Eさんの姿勢そのものを疑っていたわけでもなく、単に接点がなかっただけです。
それまで一、二度SNSで交流した程度でしたが、Eさんのブログは読んでおり、信頼に値すると思っていました。
一応、その事件については別の発信者に情報メールをしており(放置されていた)、色々と微妙な空気の中で、私は赤とんぼ先生事件に関する調査を慎重に共有していきました。
けれど、極めて重要な部分は、話しませんでした。
ただ、それについて記事化される頃には、他の二人についても情報共有できるほどには信用していたのです。
あの時点で,Eさんには状況を話しておけばよかったなと後悔しました。
率直に言えば
Eさんと私をつなげた人物――その人には、もともとあまり好感を持っていませんでした。
会話の断片をすぐにスクリーンショットに残し第三者に渡したり、他人の印象を語ったり非公開にしてその内側で「誰かを判定」したりする癖があり、そうした「情報の扱い方」に私は違和感があったのです。
「調査」についての感覚も、私とは大きく異なっていたと思います。
私は、検索窓に言葉を入れ、見つけたURLを提示することを「調査」だとは考えていません。
そこから何を拾い、どんな意味があるのかを選別し、時間をかけて掘り下げることこそを重要だと感じています。
最初の直感を信じて距離を取るべきだった――今ではそう思います。
「共有ならお断りします。Eさんに直接話すなら構いません」と伝えておけばよかった。
特に、私が持っていた情報はほぼ完成しており、ツイッター上の噂と同列にはできないものだったからです。
後に、私が知りたくもない情報がその人のスクリーンショット経由で伝わり、
私が「内輪の話」のつもりで話した言葉が、今度はまるで本音のように他者へ伝えられていきました。
それは、ただ誤解を招いただけではなく、私自身の人間像を勝手に作り上げていく始まりでもあったように思います。
何故、より複雑に?
さらに混乱を深めたのは、私の知らないところで、私のメールアドレス(当時、公開はしていません)を第三者に伝えていたことです。
私を「Aさん」だとは知らないまま、メアドを知らされた方は突然メールを送ってきました。
何のために、誰のために、私のメアドを伝えたのか。
もし私ならば、Eさんと話し合うことを勧めるからです。
何故、なんの事情も知らない方を引き入れ、さらに混乱をさせるのか。
いまだに理由はわかりません。
わかることは、メアドを伝えた人・伝えられた人は、Eさんを信じ切って、私を悪者としているということです。
何一つ、知るわけではないのに。
タイミングの悪さ
ツイッター上でEさんとトラブルになった時、私は母を亡くしました。
数ヶ月前から、母と兄がずっと悪かったことは、その人達も知っていました。
Eさんには1日だけ休戦をと伝えましたし、内容をぼかしながらもEさんはその旨をツイートしていました。
そのツイートに、私の病気症状への嘲りと、「Eさんは被害者」と断言した人。
何故、それだけのことができるのか。
考えられることは、私の母の死を「嘘」だと思い込んでいるからでしょう。
人は簡単に、他人の痛みを踏みにじることができるのだと知りました。
一方的に「終わらせられた」のです。「秋津は妨害者」として
これまでにも、この補遺にも書いていないことはたくさんあります。
Eさんも知らない、私が何故そこまで怒っているのか…
私にも、何故三人セットにされるのか等、ずっと思いはありました。
Eさんに情報提供することは納得できても、「三人セット、けれど秋津を立てて上げます」(お二人は我が我がと主張しない)、な空気にされていることはずっと棘のように刺さっていました。
Eさんは、私に「何よりも2人を蔑ろにしたのが許せない」と言いました。
私にも言い分はあります。 何度もそれとなく「2人と元々仲が良かったわけではない」と伝えていました。
そもそも、赤とんぼ先生事件も、とんぼ全般も、港区の戦略記事に意味を見出したことも、私一人が調査をしたものです。
それを共有し、そこから先、「共同で行ったこと」は「調査」ではなく、記事制作のための「煮詰める作業」でした。
そして、Eさん個人も調査をしたことは、私は否定をしていません!
直接メールをしましたが、読まれることはなかったでしょう。
でもそれで良かったのだと思います。
読まれても、きっと私の意図とは違うようにしか受け止めてもらえません。
Eさんは、「もう終わったこと」として幕を引きました。
けれど、終わらせたのは対話ではなく、私の存在そのものです。
Eさんは、おそらく「話し合いはした」との認識でしょう。
けれど、あれは話し合いではなく、「裁きの場」でした。
私の言葉は、証拠として扱われ、
「整合性の取れない発言」を探し出すための尋問のようでした。
私は、問われたことに正直に答えたつもりでも、彼女には「供述」にしか聞こえなかったのだと思います。
痛みは「被害者ぶる」、病気は「免罪符」、事実確認や主張は「嘘」…
私が求めていたのは、対話でした。 たとえ、袂を分かつにしても対話が欲しかった。
けれど、Eさんにとっては「秋津は妨害者」を確定させるために臨んでいた。
目的が違えば、言葉は通じない。
あの時間は、理解ではなく、確定している罪状の確認作業に過ぎなかったのでしょう。
そもそも、食い違いが起きて、私も真剣に主張しているのに、「振り回すために、削除の希望なんかしていないと主張する秋津」像が強固すぎました。
メールは届かず、声は遮られ、調査した記録だけが「なかったこと」にされていく。
終わったのではありません。
一方的に「終わらせられた」のです。「秋津は妨害者」として。
読まれないことの構造
この補遺記事も、Eさんはもちろんも、界隈の大半の人に読まれることはないでしょう。
「秋津の記事」の時点で読まれることはありません。
そしておそらく、誰かが勝手に私の言葉を要約し、切り取り、私の代わりに語るでしょう。
「秋津はまたEさんの悪口を言っていた」と。
そして、「この補遺記事を読まずして理解したつもりになる人たち」が、
新たな「秋津の物語」をつくっていく。
私の言葉は形を変え、やがて別の誰かの思想を支えるために使われていくのでしょう。
その過程で、私は再び「いないこと」にされます。
読まずして判断する人々の多くは、
語る言葉よりも、全体の空気を信じ、整合性や主張内容よりも多数派を信じます。
だからこそ、整った文章や穏やかな言葉を選ぶ人の側に安心を感じる。
その「安心」こそが、誤解を永遠に固定化していくのです。
アキシンによるデマが、周知されてしまったように。
私は、その構造を書き留めたかった。
読まれなかった悲しみも、誤解された痛みも、
どちらも人が「読む責任」を忘れた結果なのです。
だから、書き残すことは「無責任」への抵抗であり、
「読まれないこと」への、静かな抗議です。
当然ですが、読まれない点については、私にも非はあります。
シンプルに、「面白くない」「興味ない」「文章がつまらない」「しつこい」など。
これまでの、私の言動で招いたことではありますが、「秋津まなこという人物が好かない」に尽きるのでしょう。
私は、伝え方を誤ったのでしょう。
感情を抑えようとするほど、抑えきれなかった感情が暴発し文章は荒くなり、本当の思いとはかけ離れた話をしたように思います。
アンビバレンス ― 感情の揺れと誤解
「主張が変わる」と言われるたびに、胸が痛みました。
まず、振り回して誤解を与えてしまった申し訳なさは、確かにありました。
けれど、それは妨害や操作のためではなく、私の中でまだ整理しきれない感情が、絶えずせめぎ合い同時に存在していたからです。
怒りと悲しみ、理性と衝動。
どちらも本音で、どちらも偽りではありませんでした。
伝えたい思いが強ければ強いほど、言葉の選び方や言い分を変えざるを得なくなり、
そのたびに「言っていることが違う」と受け取られていったのだと思います。
時間が経つほどに、「ここに齟齬があったのでは」と気づく瞬間もありました。
それまで噛み合っていなかったピースが、ある日ふと、かちりとハマる。
「もう私が悪者でいいや」と強く抑え込んだ感情が、またも湧き上がる。
そのたびに、私はもう一度だけ説明し直したくなりました。
でも、その行為こそが、また「話をコロコロ変える」「都合の良い物語を作っている」と映ってしまう。
誤解を正そうと動くほどに、誤解は複雑に、そして強固に絡まり、
正直に、言葉を尽くすこと自体が、疑念の証拠になっていったように思います。
私は、どこかでEさんが、いつか気づいてくれると思っていました。
私の怒りの正体は、Eさんが思っているような「執着」や「妨害」ではありません。
私が怒っていたのは、私が信じてきた「調査の在り方」そのものを、軽んじられたことです。
私はずっと、言葉を尽くせば伝わると信じていました。
けれど、私の言葉を理解しようともしなかった。その悲しみもまた、口先の被害者気取りだと思われてしまう。
それが、何よりも痛く、悲しく、そして今も苦しい。
とんぼについて
私は、とんぼについて、もう何も書くことはありません。
元々「構造を掘る」ことを目的に調査をしてきました。
それは、記事を書くだけが目的ではなく、埋もれていく事実を記録として残すためです。
地道な調査をすれば、秋篠宮家による、お粗末な「優秀伝説」の予想は可能という記録。けれど、その記録は、今はもう存在しません。
だからこそ、「あなたも書けばいいでしょ」という言葉は、 情報を「発信」としか捉えていない人たちの発想だと思いました。
そして、この発想こそが、私とEさんの決定的な違いを表しているのだと思います。
それは、どちらが優れているということではなく、
「掘ること」と「伝えること」という、まったく異なる方向を向いた営みの違いです。
私が、そういった低俗な発想から記事に執着していると思われたことも、深くえぐれた傷となっています。
私は、悠仁さまのとんぼ論文そのものを暴きたい気持ちはないし、もう既にEさんやEさんのもとに集まる「本物の方々」によって行われたこと、となっています。
これ以上「とんぼはEさんのもの」「簒奪者」「とんぼは諦めたほうが…」と言われたくもありません。
何より、私の心がもちません。
この補遺を書くこと自体が、心を削り取る作業で、一ヶ月近くもかけています。
ツイッターでも、とんぼ論文の話題を見るたびに、言葉にできない痛みが蘇ります。
全てを私1人で完結させていた調査も、4人のものと塗り替えられた現実。
赤とんぼ先生事件然り、港区戦略から悠仁さまの皇居調査便乗を予想した事実然り。
その中で、あなただけを持ち上げてあげたんですよ、と言わんばかりの言葉の羅列…
あの調査の日々を思うと、心はズタズタで持ち直せることはありません。
「あなたの情報だとでも思ってるのですか?」
Eさんのその言葉こそが「この界隈の真実」であり、
私の言葉は「秋津の嘘」「メンヘラの妄想」とされていくのでしょう。
それは、事実よりも「物語」が優先される現実を表しています。
書かないことで、「ほら、やっぱり秋津は何もしていなかったから書けないんだ」と言う人はいるでしょう。
そういう人たちは、悠仁さま論文を請け負わされた研究者を責めることで、
なにか進んだように少しだけ安心するのだと思います。
私は、そんなことのために、とんぼの調査をしたわけではありません。
調査の目的も違う
悠仁さま佳作受賞・今回の北九州作文コンクール検証の件でもそうですが、関わらされた職員を追及しても、芯は何も変化していないと私は思ってます。
彼らは構造の犠牲者です。
正義の名のもとに、そうした人たちを追い込み、勝ち誇るような行いを、私は正義とは思えません。
私が調査を続けていた頃、とんぼについて、誰も深く見ていない時間の方がずっと長かったのです。
情報を集め、照らし合わせ、矛盾を探し、つながるかもしれない点と点の伸びる先を見つける作業は、誰かを攻撃するためではなく、
ただ私の目で確かめ、構造を探りたかったのです。
けれど、その積み重ねはいつのまにか「誰かを責めるための道具」となり、 どれだけ静かに記録しても、人はそこにその感情を見出してしまうのだと思います。
私が知る限りのEさんも、元々は、あそこまで疑り深い人ではありませんでした。
けれど、周りが「賛同者」ばかりになると、
少しずつ世界の見え方が狭まっていくのだと思います。
外の声が敵に見え、反対意見が攻撃に見える。
そうして、自分たちの物語の中に閉じこもっていく。
それは、どんな組織や共同体でも起こることです。
外の風が入らなくなった場所は、やがて自家中毒を起こします。
すべての人を「味方」と「敵」に分けるようになり 、それぞれが疑いを深め、やがて誰も信じられなくなる。
そうした構造の中で、疑い深さは「自衛」から「独善」へと変わっていくのです。
そして、そのことに、内部にいる間は気づかない。
私が書けば書くほど、「やっぱり妨害者だ」と思う人もいるでしょう。
けれど皆さん、いつもこう言っていますよね。
「国民が騒げば騒ぐほど、誹謗中傷扱いにしてくるのは、私達の言うことが秋篠宮家にとって都合が悪い証拠なのだ。つまり真実だ」と。
同じ構造です。
そもそも、
「きちんと話し合ってはどうか」と思った人は少ないのではないでしょうか。
「赤坂御用地は工事続きで、昆虫が増える環境にない」との情報が「新情報」として、Eさんが記事化した時、どなたも疑問に思わなかったように。
Eさんたちの言い分どおり、
「秋津が勝手に吠えていて、Eさんは振り回されている被害者」
という前提の上で、世界が成り立っているのだと思います。
それは、「誹謗中傷したい連中のせいで、
本当は悪くない秋篠宮家の方々が不当に叩かれている」と信じている人々と、
何が違うのでしょうか。
感謝
どれほどの誤解や痛みがあったとしても、
Eさんと調査したあの時間がなければ、私はここまで掘ることも、書くこともできなかったと思います。
あの頃のEさんとのやりとりが、私を動かす力ともなりました。
それは嘘ではありません。
本当に信頼していたし、悪いことを許さない真っ直ぐな思いと、力強く整えられた文章が、すごく好きでした。
そして、感謝しています。
言葉にならないほど多くを失ったけれど、
それでも、学んだことは確かにありました。
人を信じることの難しさも、
それでも誰かを信じたいと願う心も。
記事を書く怖さも。
私自身、何に対して怒っていたのか悲しいのかわからず、主張・考えを脳内でまとめ、文字として冷静に書けるほどになるまでに、二年もかかりました。
その間、振り回してしまったことをお詫びいたします。
締め
私にはもう、何かを動かす力も、証明する手段もありません。
けれど、それでも私の主張は書いたという事実だけは残ります。
それが、私にできるすべてです。
この文章は、秋津側から見た事実の記録です。
私の手の届かないところで、私の人格がひとり歩きし、
知らない誰かの中で「作られた悪い秋津」が語られていく。
私は、ただ必死に冤罪を訴えていただけなのに。
それすらも聞こうとしない人たちには、もう何を言っても届かないのだと思います。
だから、この記録を残します。
これは、誰かを批判するための言葉ではありません。
私自身を含め、人が「正しさ」に縛られていく構造を記録したかった。
どちらが悪いとか、どちらが正しいとか、そんな単純な話でもありません。
ただ、正義に囚われた誰もが、少しずつ不自由になっていく…その姿を書き残したかったのです。
読む人が1人もいなくても、信じてくれる人がいなくても、私は書き残しました。
風はすぐに過ぎるけれど、地層は掘り返される時が来る。
今は誰にも届かなくても、いつか誰かがこの言葉を見つけてくれたなら、
その時こそ、この記録は意味を持つのだと思います。
盲信されている側というのは、案外、苦しいものです。
多くの人の思いを背負うほど、自由がなくなっていく。
一度「正義の象徴」になってしまえば、正しさを疑うことも、間違いを認めることも許されない。
周囲が怒っていれば、象徴だけが冷静になることも許されない。
それでも、いつかその重さを下ろせる日が来たなら、 その人は本当に自由になれるのだと思います。

書き終えても、どこかに「まだ書き足りない。何かが違う…」という感覚が残ります。
それはきっと、この先いくつ補遺を書いても変わらないでしょう。
思いというのは、言葉にした瞬間に形を変えてしまう。
書くことで整理できる部分もあれば、書いたことで露わになる新しい痛みもあります。
だからこそ、補遺という形は、終わらない記録なのだと思います。
過ぎていく時間の中で、消えていく感情と、変わってしまう事実を記すためのものです。
この記録は、誰かを責めるためではありません。
ただ、私が見てきた現実を、嘘のまま妄想のままにしておきたくなかっただけです。
秋津まなこ
