前編では、ある誤解がどのように固定化し、事実が書き換えられていったかを追いました。
誤解が固定化していく過程を振り返るうちに、私は気づきました。
それは、単なる誤解の連鎖ではなく、「信じたい物語」を共有する人々が互いを支え合う構造そのものだったのです。
そして、その構造の中で、私自身もまた感情に揺さぶられ、調査という「現実」を見失いかけた時期がありました。
この補遺の後半では、「物語が現実を凌駕していく過程」を、もう少し広い視野で見つめていこうと思います。
現実は「誰を信じたいか」で形成される
あの頃、私も感情的になっていました。
やり取りの中で、「私より悪口を言っていた人のほうを信じるんですね」と問いかけたことがあります。
返ってきたのは、「悪口ぐらいなんとも思いません」という言葉でした。
そのとき、ようやくわかりました。
現実は、誰が正しいか、整合性が取れているかではなく、誰を信じたいかで形づくられていく。
これは、皇室問題にも通じます。
「皇族がそんな事をするわけがないだろ!反日による誹謗中傷!」としか思わない人たちが、いかに耳を傾けてくれないかという理由も同じです。
「認めて」をめぐる誤解とすれ違いか?
記事を戻せないなら、せめて私がAであり、さまざまなことを予想していた事実だけでも認めてほしい…そう願いました。
その事実を知っているのは、私を含めて四人です。
もしEさんたちがそれを認めてくれていれば、記事が残っていなくても、私は自分の調査を証明できた。
けれど、その願いは受け入れられませんでした。
「なぜ、私がそんな事をしなくてはいけないのか」と。
もしかすると、Eさんは「認めて」という言葉を、私が記事を褒めてほしい、紹介してほしいという意味に捉えたのかもしれません。
けれど、私が求めたのはそうではなく、「あの調査を行っていたのは確かに私だった」という事実の確認だけでした。
誰かに問われた時、「そうです」と認めてほしかっただけ。
Eさんは情報を受け取る側であり、その立場には一定の道義的責任があると、私は思っています。
彼女たちにとって、感情によって事実は変わるのだと気づきました。
| 立場 | 意図・(または推測される)解釈 | 結果 |
|---|---|---|
| 秋津(私) | 「Aであった事実だけでも認めてほしい」 (あくまで事実確認の要請) |
拒否される:「なぜ私がそんなことを」 |
| Eさん(秋津の推測) | 「“認めて”=記事を褒めてほしい/紹介してほしい要望」と受け取った可能性 | 秋津の意図が「自己主張」や「対立」として伝わる |
| 構造的効果 | 意図と解釈のズレが、誤解の固定化を加速させた | 信頼の崩壊、構造的な分断の完成 |
「認めて」という言葉一つが、文脈を越えて意味を変え、誤解が構造化していく起点となった。
※ここにも「解釈の齟齬があったのでは?」と気づいたのは、出来事から一年以上経ってからのことです。
善意で尋ねたこと、正直に答えたこと――そのすべてが、悪意や策謀のように受け取られていきました。
私はただ、私のせいで周囲の関係がこじれていないかを気にかけていただけでした。
けれど「なぜあなたがそんなことを気にするのですか」と、強い警戒を向けられました。
その時点で、もう何を言っても裏があると見なされていたのだと思います。
私が誰かを分断させようとしている、発言は策謀で、必ず裏があるという筋書きが、あたかも事実のように共有されていったようです。
もともと信頼関係のない人たちのあいだに、私の調査を共有させたこと自体が、そもそも無理のある構造でした。
信頼という土台のない場で「協力」を前提に置かれ、誤解や不安が、敵意として形づくられていったのだと思います。
それぞれが「分断を防ぎたい」と思っていたのに、結局は互いを判定し合い、線を引いてしまっていた。
その構図自体が、私がずっと問題だと感じていた「界隈の分断構造」そのものだったのだと思います。
悪を作ることで結束したものは脆く、行き着く先は…
正直に言えば、私はある人によって、完全に分断させられたと感じています。
私が誰かを陥れたわけでも、裏で何かを仕掛けたわけでもありません。
けれど、向こうの側は全員、私を「原因」にして一つにまとまり、
「私たちは悪くない」「分断なんてしていない」「分断しないぞ」と言いながら、
より強く結束していきました。
その構図が、何よりも悔しい。
本当の分断は、私が生んだのではなく、
「誰かを悪者にすることで、自分達は悪くないと安心したい」人たちの中で、静かに進行していったのだと思います。
私は孤立し、彼女たちは「平和」を取り戻したようです。
でもその平和は、誰かを排除して保たれた、脆い均衡です。
それを思うたびに、言葉にならない悔しさとバカバカしさがこみ上げてきます。
けれど、本当は、あの人たちも心の奥で気づいているような気がします。
何かがズレていたのでは…?と(全く思っていないのならば、生粋のいじめっ子です)
けれど、それを認めた瞬間、自分たちの中で守ってきた「正しさ」が崩れてしまう。
だからこそ、互いに確認し合いながら、
「私たちは悪くない」「全て秋津が悪い、自分達は被害者」と言い聞かせ続けているのでしょう。
その自己防衛の中で、私はずっと悪者のままにされました。
カルト化の怖さ
こうした体験を通じて、いや、それ以前からですが、私は界隈の一部が「発信者を神格化する」危うさを持っていると痛感しました。
愛子天皇派である証明が、「神」を応援しているかどうか、つまり踏み絵のようになっているのです。
正義を掲げているはずなのに、その正義に酔いしれて盲信し、冷静さを失っていく。
「愛子天皇を望む」「雅子さまへのいじめは許さない」と言いながら、同じ声を上げているはずの私の声には「耳を貸してはいけない人物」として、むしろ容赦なく攻撃する。
なぜなら、神を悪く言う存在=異端者だから。
本当に冷静に「愛子天皇」を望んでいる人たちは、発信者を神格化しません。
「あきらかにいじめ」「秋津さんに対しての酷い人格攻撃を扇動している」と、そっとメールで同意してくれた人も居ます。
「ツイッター上では同意できない雰囲気だから…ゴメンナサイ」と。
けど、一部の人は、自分が盲信していると気づかないまま、私のような存在を「敵」「悪」として排除します。
もちろん「秋津のことが嫌いだ」と思う人がいるのは当然です。
「よくわからないけど、秋津は妨害者なんですね」と、盲信してることを問題視しています。
モヤっとした「構造としての現実」スッキリとした「物語としての正義」
喪われた調査
感情的に「あなたが悪い」「いや、妄想だ」とやり合っても、
その争いの中で最も損なわれたのは、誰か個人ではなく、
「悠仁さまのとんぼ論文を予想し、歪んだ構造を分解するための記事(調査)」そのものでした。
あの、とんぼにまつわる一連の調査も、誰かを糾弾するためではなく、
「悠仁さま優秀伝説」という物語の背後にある、「おかしさの構造」を理解するためのものでした。
けれど、その記録は失われてしまいました。
私の主張の意図はねじれ、
「著作権にこだわる」「自慢、自信過剰」「人格が歪んでる」といった形に矮小化されていきました。
Eさん側の必死さと、私の言葉の伝わらなさが、互いの感情をさらに煽り、
やがて、「秋津への嫌悪」という空気そのものが膨らんでいった。
その中で、調査も記録も、跡形もなく消えていったのです。
現実から物語に
真実(現実)は、退屈で、はっきりとした答えが出ず、いつもモヤモヤしています。
それを「わかりやすく整えた瞬間」に、真実ではなく物語へと変わる。
――筆者の介入があるからです。
「構造としての現実」を描くのか、「物語としての正義」を紡ぐのか。
どちらが「気持ちよく」、「人の心を動かし」、そして「最も危うい」のか――それは、もう明白でしょう。

優劣の問題じゃなくて、根本的な「違い」なのよね。
どちらが上とか下とかじゃなく、「物語」と「検証」は、そもそも目的が違うの
信用性の高い一次資料を用いても、「断定は避けながらも信じさせる」のと、「読者に考える余地を残す」事の違い。
前者において、思考の余白が非常に少なければ、それはもう断定と言えるのではないでしょうか。
スカッと結論がほしい人、物語として整った「正義」を求める人には、私の文章はもどかしいと感じるでしょう。
けれど、その世界の複雑さを覗き見たい人、白と黒の合間にある灰色を確かめたい人には、 この地味な記録の意味が、きっと伝わると信じています
フィルターバブル(持つ情報が違う)
フィルターバブル=「閉じた認識の層」。情報が内側で循環する一方、外部の声は遮断され排除される。
私が以前書いた記事です。
「日本国民総『バブル中』――情報を持たざる者と持つ者はいかに意見が違うのか。悠仁さま成年会見で触れさせたいこちらのバブル」
そこで紹介したのは、検索やSNSが、私たちに都合のいい情報ばかり見せてしまう仕組みです。
似た考えだけが集まり、異なる声は見えなくなる。まさに「閉じた認識の層」です。
皇室問題でも同じで、有名発信者の記事や動画はそのまま事実とされ、異論は「敵」として排除されていますね。
こうしてフィルターバブルの中で情報が固定化され、誤解や分断は強化されていきます。

もちろん、これは私だけがそれに染まらない特別という話ではありません。
誰しもフィルターバブルには陥りがちです。
この人は正義だ、この人の言うことを聞いていれば間違いない、が集団化すると一気に危険な状態に…
だからこそ「これは偏ってないかな?」と、常に意識的に気をつける必要があると思います。
このバブル内の人たちのように、「本物だけが発信者として残る」とか「妨害されている」といった言説に傾くと、あっという間にカルト化してしまいます。
多様な視点持つことが重要だと、感じているのは私だけではない、大勢居るはずなのに…
特に、皇室系の大きな話題があるときは、普段は関心のない人もニュースに触れることになります。
その際に、容姿批判や病気の決めつけ、病気への差別といった発言が前に出てしまうと、「ああ、やっぱりくだらないことで批判している集団なのだ」と受け取られ、論点が歪められてしまいます。
私側の視点に立ってみてくれたことはありますか?
私も、この二年、事実ではないことで誹謗中傷を受け、事情も知らない人たちから妨害を受けています。
矛盾と欺瞞
私は何度も話し合いを試みましたが、Eさんからは「妨害目的と判断しました」とシャットアウトされました。
メールを閉ざされ、仕方なくTwitterで「話は終わっていません」と呼びかけました。
しかし、そこはすでに「秋津が悪い」という結論ありきの公開処刑の場でした。
Eさんが私にメンションを付けてツイートしたことがあります。
すると、他の人が「よくわからないけど、話を聞いちゃいけない人なんですね」のような内容を返信し、それが私にも通知されました。私宛のメンション付きだからです。
私は思わず「私の言い分を聞いてもいないのに?」との旨を、その人にリプライしました。
結果、通報が殺到したのか、そのツイートは消えました。
表示は「投稿者により削除」となっていたようです。それはツイッターの仕様です。
通報が殺到すると、確認するまで一時的にツイートが表示されなくなるんです。
けれど、「秋津が消した。都合が悪いと消す」と、公開処刑の場では変換され、事実となっていく恐ろしさ。
誰も「そういう仕様ですよ」とは言いません。事実がどうこうより、秋津は悪者前提で、秋津を叩くことが目的になっているからです。
その後、その人は「絡まれた」と発信し、さらに「秋津=危険人物」という物語が補強されていきました。
悪意のスパイラル、デモナイゼーション。
私が必死になればなるほど、その必死さを悪意の妨害と捉えられる。

私はどんな行動をしても「妨害目的」の証拠にされる、蟻地獄から抜け出せていませんでした。
何より、私自身が、恐怖・怒り・悲しみ・許しがたい思い・後悔など、複雑な感情に振り回されました。
そして何より納得できなかったのは、「雅子さまいじめは許さない!」と声を上げていた人たちが、私に対しては平気で同じことを繰り返したことです。
いじめを糾弾する口で、別の誰かをいじめる。その矛盾と欺瞞に、私は心底打ちのめされました。
外から見える姿
私は「予定通り暴露する妨害者」とされました。
もし、記事を消す前に、一言知らせてくれていれば…
もし、私がAさんであることを最初に認めてくれていれば…
もしきちんと話し合えていれば…。
たとえ、袂を分かつことになったとしても、こんな結末にはならなかったはずです。
そして今、私は、自分の名誉を守るために声を上げたことすら「妨害」とされています。
これは、界隈内の言論弾圧だと感じます。
その一方で、この界隈は「雅子さまいじめは許さない」と声高に叫んでいる…
けれど同じ口で、一部の人は、私に対してはいじめを行っているのです。
「愛子天皇」を望む人々のはずなのに、私の声には耳を塞ぎ、私が調査してきた事実すら無視します。
誤解の辛さを知っていても…立場が変わると
この世の中で本当に恐ろしいのは、人間が「自分と、その仲間内の正義に酔ったとき」です。
私たちのように「秋篠宮家の酷い有様」に声を上げる人間は、国民からは「皇室に不敬な人々」「叩きたいだけ。反論できない皇族を狙ってる」「反日左翼」と誤解されています。
「雅子さまを誹謗中傷してた奴らが、今は秋篠宮家を攻撃している」と、盛大な勘違いをしている人もかなり多いです。
違いますよね?
でも、その人達は「思いこみ」をしている。
なぜなら「皇族は皆立派で素晴らしい」と思い込み、政治家以上の不正を行っているとは微塵も思っていないからです。
「皇族を悪く言うのは、皇室に仇なす者達」との先入観があり、アキシンが先導する「アイツラは反日外国勢だ」をそのまま信じてしまうのです。
だからこそ、私たちは「そうではありません。本当のことを知ってほしい」と必死に発信しているはずです。
ではなぜ、私の声を「妨害」「アキシン」と決めつけるのでしょうか。
本来、事実は感情の線上にないもの
私のことを、嫌いだと感じるのは仕方ありません。
しかし、嫌悪感情と事実は同じ線上ではないはずです。
「この人のことは嫌い。だから、言ってることは事実じゃない」
それは、あまりにも非論理的ではないでしょうか。
事情を知らない人までもが、Eさんの話のみで私の人格を否定し、「話を聞いてはいけない人なんですね」と耳をふさいでいく現状。
「どうして話を聞いてもくれないんだ…」と、そのやり切れなさに胸が潰されそうになる、そんな経験をしている界隈なのに。
矛盾です。
「いじめは許さない」と言いながら、いじめを行う。
「話を聞いて。どうしてもっと判ってくれないんだろう」と言いながら、同じように声を上げる人の話はシャットアウトする。
私は、身をもって、集団いじめの恐怖を感じました。
どこかの誰かが発した、「謂れなき物語となって…」と言いたい気持ちだけは、よくわかります。
補遺は記録、そして「層」となる
この補遺は、名誉回復のためだけではありません。
同じ過ちを繰り返さないための記録でもあります。
人は正義を掲げながら、簡単に他人を踏みにじってしまう。
だからこそ記録し、残すことに意味があるのです。
この補遺は、私の気持ちの整理のために書きました。
けれど、「ほら、やっぱり秋津は妨害・分断側。アキシンだな」と、ますますカルト思考になる人も多いのだと思います。
エコーチェンバー・フィルターバブル、神格化・盲信し、同じ思考の人で固まると、驚くほど暴走思考に走るのが人間なのでしょう。
私に、石を投げつけた人たち(百人単位、Eさんツイ周辺)は、おそらく今後自分が酷いいじめに参加したと知ることすらなく人生を過ごし、「秋津はエグい奴だった」で結論づけ、「いじめは許さない」と正義に燃えて生きるのでしょう。
「ほら、やっぱりこの記事を書くことも策謀のうちだった」「当たり屋秋津」と、確信を深める人もいるのでしょう。
そして私の声に、アタオカだと耳をふさいだり、ハイハイまだ言ってるわw、黙れ、と思ったりして排除しているのに、「もっと秋篠宮家の酷さを知ってほしいな」と、自分たちの声が他者に届かないことを嘆くのでしょう。
そういう人がいるのも事実です。 けれど、それは界隈の全てではありません。
冷静に、「それは個人間のトラブルでしかない」と見てくださる方も、目立たないだけで大勢いてくれます。
あとがき
悠仁さま佳作受賞、北九州作文コンクールの検証記事は、ブログを立ち上げる前から、いつか必ず書きたいと思っていたテーマでした。
ようやく書きあげることができました。
「技術のない、力を持たない素人の執念」でも、 私自身の言葉(説明はAIに頼りました)で、ここまで書けたことに、今は少しだけ誇りを持っています。
素人の個人ブログだからこそ、なんのしがらみもなく自由に書けます。
「悠仁さまを悪く言うのなら協力しません」なんて、「頼んでませんけど、何様?」なことを言われることもありません。
そして、なんとなーくで人を疑い盛り上がる人たちより、これを書いている途中にも妨害行為を行ってきた人達より、ずっと「妄想力」は低いと思ってます。
ただ、後になればなるほど、このシリーズを書くのは怖かったです。
まとめきれるのか、推論を破綻なく書ききれるのか、伝えたいことを言語化できるのか、それが正しく伝わるのか…
「驕る者久しからず」「後から論理的な人が…」「大した記事じゃない」「〇〇さんをパクるな」「妨害者」と、何もしないくせに虎の後ろで妄想たくましく、自分が力を持ったかのように人を判定し、やいのやいの言ってるだけの人にはわからない質の恐怖でしょうね。
双極性障害が判明した時、 私はもう、この先の人生では何もできないと思い込んでいました。
記事が消され、それまで積み上げてきた調査や努力も、すべて消えてしまった絶望。
さらに母との突然の死別も重なり、本当に底の底まで落ちた気持ちでした。

それでも、なんとか、こうしてまた書き始めることができたのは、 結局、誰かからの助けや、思いがけない人達からの支えのおかげです。
ここまで読んでくださった方にも、 心から感謝しています。
拙い検証記事、及び、この補遺ですが、読んでいただきまして本当にありがとうございました。
何か感じてくださる人がいたなら、それが一番の報酬です。
秋津まなこ
